使徒13:42-52「永遠の命を得る」 20260927
更新日:5 日前
(聖書)
申命記8章 1-4節 (旧約294頁)
使徒言行録13章42-52節(新約240頁)
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年9月27日聖霊降臨節第19主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
(説教要旨)
1.同じことを話してくれ
先週の説教では、パウロとバルナバがアンティオキアの街に到着し、ここでも同胞のユダヤ人たちの集まる会堂に行きました。そして会堂長たちから「励ましの言葉」を語ってくれと求められ、それに応じてパウロが立ち上がって旧約聖書を用いながら説教したことをお話ししました。
説教を終えると、「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。」と書かれています。
パウロがイスラエルの歴史を語ることによって、それほどまでに人々の心を打つものとなったのです。
普通であるならば、同じ話をしたら誰も聴きに来なくなる怖れがありますが、アンティオキアの教会の人人は、同じ話を聴きたいと求めたのです。
それから43節には、「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。」と書かれていて、その時の感動の様子が手にとるように分かります。
教会は二千年以上にわたり、同じことを聴き続けてきました。わたしたちもそうです。なぜ同じことを聴き続けているのでしょうか。聴き続けても聴き飽きないものだからです。しかしそれだけではありません。聖書の言葉は、聴く人にとって日毎の糧となる神の言葉だからです。
教会のわたしたちは、二千年にわたって、神の言葉を食べ続け、養われ続けられてきたのです。
2.七日目は安息日
申命記8章2-3節(旧約294頁)に、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、『人は主の口から出るすべての言葉によって生きる』ことをあなたに知らせるためであった。」と書かれています。
申命記に出てくるイスラエルの民は、モーセに引き連れられてエジプトを脱出し、荒れ野で四十年にわたる旅をしました。神はその間、マナという食べ物を天から降らせて与え続けてくださいました。マナは、人人のお腹を満たし、神の言葉となって『人は主の口から出るすべての言葉によって生きる』ことを教えてくれたのです。
そして、出エジプト記16章4節(旧119頁)には、天から降ったマナは「毎日必要な分だけ集める」ことと、5節には「6日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」ことが書かれています。そして25節には、「7日目は安息日だから野には何もないであろう。」、30節には、「民はこうして、7日目に休んだ」と書かれています。
創世記の天地創造物語では、六日の間、神が天地万物をお造りになり、七日目に休まれました。このように、神は七日という刻みを定められたのです。
神の言葉を聴いて選ばれ養われて生きる人間は、もはやユダヤ人だけ、一部の人たちだけではありません。神が招いてくださるすべての人が、その糧に与るのです。わたしたちの生活もまた、この七日の刻みで営まれています。
神の戒めとして、この安息日をきちんと守ることが定められました。六日の生活を終えて、わたしたちの生活は歪んでしまいます。神のことを忘れ、神とは違う方向を向いてしまい、神が定めてくださった軸からもずれてしまうのです。ですから常に、神の言葉を聴き損なってしまった、律法を守り損なってしまった、と再確認して軌道修正をしていく必要があります。そのために与えられたものが、主の創造の業と通じる七日という刻みなのです。
それが今日のわたしたちの主日礼拝の重みにつながっているのです。
3.「勇敢」に語る
44節に、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。」と書かれています。
こうして神の言葉が毎週のように語られるようになりました。
ところが反対者が現れます。45-46節には、「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。」と、書かれています。
ここに「勇敢に」(パレーシア)という言葉が出てきます。「大胆に」と訳されることが多い言葉です。自分の語ることが何かによって曲げられることなく自由闊達に大胆に語るという意味があります。
説教者の祈りの言葉として、人間の言葉によって曲げられることなく、まっすぐに神の言葉を語ることができますようにと、祈りの中でもよく用いられている言葉です。また、教会員の皆さんが「牧者がみ言葉を大胆に語ることができますように」と、祈ってくださっていますが、その祈りの聖書的な根拠となるものです。
パウロは、かつては教会の迫害者でしたから、迫害者側の気持ちもよく分かっていたのです。教会に対する反対が敵意となり、さらには殺意にまでなるということが、パウロ自身の体験としてよく分かっていたはずです。だからこそ、パウロは迫害に負けずに、勇敢に、大胆に、神の言葉を語ったのです。
4. 永遠の命を得る人人
使徒言行録13章46-47節で、パウロは、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を『永遠の命を得る』に値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」と語っています。
ここで特に重要なことは、パウロは、「わたしたちは異邦人の方に行く」と言っているのであって、主から命じられた使命を受けて、キリストの救いを異邦人へ運ぶことが自分の使命だったと言っていることです。パウロが、自分で異邦人伝道をを始めたと言っているのではないことです。
47節で、「主はわたしたちにこう命じられておられる」と言って、イザヤ書49章6節b(旧1142頁)を引用箇所しているのです。イザヤ書では、「国々の光」と書かれていますが、ここでは「異邦人の光」と言っています。また、ルカによる福音書2章32節(新104頁)では、シメオンが幼子イエスについて、「異邦人を照らす啓示の光」と言っています。
ここで異邦人の光と定められたという「あなた」とは、直接的にはイエス・キリストを指していると理解するのが自然です。ですから、旧約聖書においてイスラエルが担うはずだった使命を、主イエス・キリストが代表して完全に成し遂げてくださることになるのです。つまり新約聖書では、イスラエルと無関係な別の人物としてではなく、イスラエルを代表する真の僕、真のイスラエルとして主イエスが登場するのです。そして「国々の光」であるキリストから、パウロは光を与って、キリストの光のもとでパウロがキリストを運ぶ僕としての使命に召命されたのです。
すると48-49節に、「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を讃美した。そして、『永遠の命を得る』ように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」と書かれています。
こうしてパウロの手を通じて信仰者は『永遠の命を得る』ことになるのです。
50節に「ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。」と、書かれています。パウロたちは、ユダヤ人の一部の人たちの陰謀によって、街から追い出されてしまうのです。
51節には、「それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。」と書かれています。そこでパウロとバルナバは足の塵を払い落として、次の街へと出掛けていくのです。足の塵を払い落とす行為は、この街の伝道についてはもはや自分たちの責任ではないと決別を表す行為です。
ルカによる福音書10章10節(新125頁)に、「町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。」、主イエスが弟子たちに命じています。
51節でパウロとバルナバが行った足の塵を払い落とす行為は、主イエスが弟子たちを伝道旅行に遣わす際に言われていた言葉と同じものなのです。
そして52節には、「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」と書かれています。「弟子たち」とは教会のキリスト者たちのことであり、わたしたちのことなのです。
こうして、『永遠の命を得る』ように定められている人は皆、信仰に入りました。そして、『永遠の命を得』た人人によって、教会が建て上げられ、福音がこの地方一帯に広まり、キリスト者たちが増えて、喜びと聖霊に満たされていったのです。
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