使徒14:1-20「主を頼みとして」 20261004
(聖書)
詩編146編5-8節a (旧約986頁)
使徒言行録14章1-20節(新約241頁)
本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年10月4日聖霊降臨節第20主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄
(説教要旨)
1.イコニオンでの伝道
パウロとバルナバは、ピシディア州のアンティオキアでユダヤ人たちの迫害を受けて、足の塵を払い落して、さらに東へ150km行った先の街イコニオンに到着しました。
使徒言行録14章1~7節に、イコニオンでの伝道の様子が書かれています。1節に、「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂で」話をし、「その結果、大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入った」と書かれています。
この時、主イエスによる救いの恵みを受け入れた人々が、ユダヤ人にもギリシャ人にも大勢いたことが分かります。
一方で、アンティオキアと同じように、ユダヤ人たちの中には、主イエスの福音を信じようとせず、むしろ激しく反対し、伝道を妨害する者が出てきました。
2節には、「信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。」と書かれています。彼らは、主イエスを信じる信仰を持つ兄弟たちや教会の人々を批判して評判を落とそうとしたのです。
3節に、「それでも、二人はそこに長くとどまり、『主を頼みとして』勇敢に語った。」そして「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」と書かれています。
迫害の中で忍耐をもってそこに長くとどまって、主を信頼して大胆に宣教を続けたです。ここでは、主(イエス)が主語として書かれていることに注目してください。主が、パウロとバルナバの手を通してその恵みの言葉を証しされている聖霊の働きが書かれているのです。
このように迫害が続く中で、主イエスの力が働いて伝道が続いていきましたが、4節には、その結果、町の人々が分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒たちの側つまりパウロとバルナバの側についたと書かれています。
主イエスの福音が力強く語られる時に、神の恵みによって自由意志が与えられている人々が、福音を信じて受け入れる者と反対する者の二つに分けられるのです。そこには中立ということはありません。神の恵みの言葉を受け入れるのか拒否するのか、神はわたしたちにその二者択一を迫るのです。
5節に、「異邦人とユダヤ人が、『指導者』と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」と書かれています。
「『指導者』と一緒になって」ということは、イコニオンでは、福音を受け入れない異邦人とユダヤ人が現地の役人を巻き込んで迫害しようとしたということです。
2.リストラへ
これに気付いたパウロとバルナバは、リストラとデルべに「難を避けた」と書かれています。一つの町で迫害を受けたら、足の塵を払い落として次の町へ行けというのは、主イエスが弟子たちを伝道に派遣された時の教えです。
難を避け次の所へ行くことによって、福音がさらに広められていったのです。
8節に、「生まれつき足が悪く、まだ一度もあるいたことがなかった」男が登場します。パウロは、ユダヤ人会堂がなかったので、リストラでは町の広場のような所で人々に福音を告げ知らせていたのでしょう。
9-10節に、「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」と書かれています。
この男は、道行く人々からの施しを受けるためにそこに置かれていました。パウロは、熱心に話を聞いているその男の顔をじっと見つめました。そして「いやされるにふさわしい信仰があるのを認め」たのです。
パウロは、その男に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で命じました。すると、パウロを通じた神の恵みの言葉を聞いて、その男が踊り上がって歩き出したのです。
自分の力では何もできないままで、主イエスによる神の救いの恵みを受け入れることが信仰です。何かができるようになることが信仰なのではないのです。このことから、生まれつき足が不自由で自分では何もすることができない、自分の力ではもはや立ち上がることができないような中においてこそ、人に本当に信仰があるかどうかがはっきり現れることが分かります。
3.主の不思議なみ業
パウロは、主イエス・キリストの福音を語っただけです。
そして救いを告げる福音が、この人に信仰を与え、その信仰を神が受けとめて救いのみ業を神がして下さったのです。パウロの力によってなされたことではないのです。
イコニオンから難を避けて来たリストラにおいても、主イエス・キリストがパウロを通して不思議な業を行い、恵みのみ言葉を証しして下さったのです。
先ほど司式者が聖書朗読した詩編146編
7節b-8節aには、「主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。」と、書かれています。
生けるまことの神に立ち帰るならば、一度も歩いたことがなかったとしても、この男のように苦しみや悲しみにうずくまっているところから立ち上がって、新しい人生を歩み出すことができると賛美しているのです。
11節に、この癒しの奇跡を見たリストラの人々は、リカオニアの方言で「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言ったと書かれています。そして、バルナバを主神「ゼウス」、パウロをその子供「ヘルメス」とギリシャの神々の名前で呼びました。
さらに13節では、「町の外にあったゼウス神殿の祭司が、彼らのいる家まで雄牛数頭と花輪を運んできて、群衆と一緒になって二人にいけにえを捧げようとした。」と書かれています。
日本では、天皇を現人神として礼拝することが強制されていた歴史があります。人間と神々との区別が曖昧で、偉い人や大きな業績をあげた人が死んですぐに神としてあがめられていくことがあります。神道の神々だけでなく仏と呼ばれる神もいます。それぞれの家に、家に神棚と仏壇がいっしょにあっても違和感を感じない人が多いのです。
今日の聖書箇所に出てくるリカオニアの方言を話していたリストラの町の人々の心の奥底には、恐れと不安の思いがありました。そして礼拝や祭が、人間の不安や苦しみや恐れを鎮め、安心や平安を得るための手段になっていたので、パウロとバルナバにいけにえを捧げて礼拝しようとしたのです。
パウロとバルナバは、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行って、激しい抗議と反対への意志表示をしたのです。
そして「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、『このような偶像』を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」と伝道しています。
ここでパウロが語った『このような偶像』というギリシャ語を直訳すると「このような虚しいもの」ということで、その方が分かりやすいかもしれません。パウロは、本当に礼拝すべき生ける神が別におられる、わたしたちは、あなたがたが虚しい神々を離れて生けるまことの神に立ち帰るために、「わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」と語り、「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」と、神は天地万物の創造者であり、人間は被造物なのですから人間が神になることはないことを教えています。
そして16-18節には「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」と書かれています。
天地を創造されてすべてを統べ治めている神を証しして、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができたのです。
19節には、「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。」と書かれています。そして翌日、パウロはバルナバと一緒に何事もなかったように、デルベへと向かっています。
それでもパウロは、何事もなかったように第一次宣教旅行と折り返し点となるデルべへ向かったのです。
聖書には直接的な表現では書かれていませんが、「町の外に引きずりだした」、「パウロは起き上がって町に入って行った。」と、淡々と語られている中に、主の導きと守りと励ましがあったことを垣間見ることが出来るのです。
ここで聖書がわたしたちに教えてくれていることは、パウロとバルナバの宣教旅行には、このように、間違いなく主の導きと守りと励ましがあったということと、二人が主を信頼して大胆に宣教を続けて行ったということです。
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