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使徒14:21-28『信仰に踏みとどまる』 20261011

1 日前
読了時間: 8分

(聖書)

エズラ記8章21-23節 (旧約733頁)

使徒言行録14章21-28節(新約242頁)

 

(説教要旨)       

パウロとバルナバは、ピシディア州のアンティオキア、イコニオンで伝道し、迫害を受けながらも、リカオニア州の「リストラ」、「デルべ」という近くの町に移動しながら宣教に向かっています。聖書巻末の「聖書地図」「7 パウロの宣教旅行1」で、「アンティオキア」「イコニオン」「リストラ」そして、今日の聖書箇所で語られる「デルべ」という町の位置関係を確認してください。

地図をご覧いただいてお分かりになると思いますが、この「デルべ」が第1次旅行の折り返し地点となります。ここから来た道を戻って行きます。

 

今日の聖書個所のすぐ前に、使徒言行録14章19節には、「アンティオキアとイコニオンからやって来たユダヤ人たちが群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけて、パウロは気を失い、死んだようになって町の外へ引きずり出された」と書かれていました。ここで気が付くことは、ユダヤ人会堂のあったような大きな街、「アンティオキアとイコニオン」でパウロたちを迫害した人たちがリカオニア州の田舎町まで来ているということです。

 

パウロたちの宣教活動によって、ユダヤ人社会の中で宗教的対立が起こりパウロたちを迫害した出来事が、主イエスを十字架に架けた出来事と通じるものがあり、その迫害のエネルギーが町から町へと飛火していったと考える方が分かりやすいと思います。パウロたちの伝道によって主イエスを信じた人人は、そのような迫害にさらされていて、宗教的な緊張感があり組織的・継続的な反対運動があったということです。

19節bには、「パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」と書かれていて、20節には、「弟子たちがパウロを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。」と書かれていました。

ここには、「死んでしまった」という言葉と「立ち上がった」という言葉が用いられて、主イエスの十字架の出来事を思い出させる「死」と「復活」が対比されるかたちで表現されているのです。


とすればなおさら、この聖書個所は、連続する「迫害の記録」が書かれていると受け取るのではなく、迫害する人たちの手によっては止められなかった「パウロの宣教記録」として読むことがふさわしいものなのです。

すなわち、パウロの宣教活動がある町へ広がると、反対者たちの側もそれを追いかけるがそれでも他の町に広がっていくことが繰り返されているのです。

 

21節には、「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にして」と書かれています。「二人」とは、言うまでもなくパウロとバルナバのことです。「この町」とは、第1次旅行の折り返し点となった「デルべ」です。デルべで、福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしています。

それから、「リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら」と書かれていますが、折り返し地点のデルべから「引き返し」た理由については書かれていません。迫害があったからとも、聖霊に導かれたからとも書かれていませんが、実は折り返し点から二人の働き方改革が行われているのです。

 

22節に、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」と書かれています。

ここでパウロとバルナバは、「神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言っています。弟子たちに「これから苦難がなくなる」と約束してはいません。また、主イエス・キリストによる救いのみ業によって示されている神様のみ心を知った教会の信徒たちが信仰に留まり続けるよう励ましています。

わたしたちは、様々な労苦や試練の中で四苦八苦しながらも、神を信じるのか、神に委ねるのかと問われます。信仰はまさにそのときにこそ真価を発揮するのです。

 

人は、自分でいくら強い心を持とうと決意しても、強い心を完成することはできません。心が力づけられて強くされるためには、自分の心を支える土台が神から与えられることが必要なのです。その土台は、主イエス・キリストによる神のみ業によって、惠により与えられるものです。そしてその土台の上に立つことが信仰です。その土台の上にしっかりと踏みとどまることによって、わたしたちの心は力づけられ、強められるのです。

だからと言って、多くの苦しみに打ち勝たなければ神の国には入れない、ということではありません。パウロは、信仰の歩みにおける様々な苦しみ、戦いは、神の国に至る道なのだと積極的に受け止めて、苦しい中にあってもみ言葉に聴き従って、主に委ねて歩みむようにと、信仰に踏みとどまるようにと励ましているのです。


先ほど司式者が朗読してくださった、旧約聖書733頁のエズラ記8章22-23節には、「『わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります』と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた。」と書かれています。7章6b節で、エズラは預言者ではなく、「モーセの律法に詳しい書記官」と紹介されています。ペルシア王キュロスの許可によって、バビロン捕囚からイスラエルの民が帰還した後の紀元前5世紀ごろのペルシア時代に、神の律法を学び、実行し、それを民に教えた人です。


エズラ記8章22節には、わたしたちの神の御手は、神を求めるすべての者の上に恵み深くあると言っています。危険がなくなったから神を信頼するというのではなく、敵のいる中での旅ですから、旅に出る前に断食して、神に自分たちを委ね、その祈りが聞き入れられたと言うのです。

 

そして使徒言行録14章23節には、「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。」と書かれています。

「弟子たち」とは教会の信徒のことです。二度も「弟子たち」という言葉を使って、弟子たちの励ましや教育、そして教会形成と祈りに目が向けられています。

第1次宣教旅行で福音を宣べ伝えて来たときに、「喜びと聖霊に満たされていた」弟子たち、すなわち信徒になった者たちに目を向けて彼らを励まし教会形成の指導をすることを折り返し点以降の主たる目的としたのです。そのために、教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈っています。そして彼らを主に委ねたのです。

 

パウロは、自分が去った後、教会の人々がしっかりと信仰に踏みとどまり続けることができるように、教会における信仰の指導体制が整えられるようにしたのです。そのために立てられたのが長老たちでした。今日の牧師、長老、執事の働きの全てを含めて担うもので、現在の杵築教会で言えば責任役員会のメンバーである代表役員の教師と5人の責任役員が、パウロによって立てられた長老だということです。そのようなことを覚えて、今日の神学校日、伝道献身者奨励日に、私が説教原稿の代読者を担わせていただいて神の言葉を取り次いでいるのです。

 

神様から責任役員に使命として与えられていることは、教会の信徒一人一人が、主イエス・キリストにおける神様の恵みのみ業に踏みとどまる信仰をしっかりと持ち、そこから迷い出てしまわないで、苦しみや困難があってもそれが神の国への道だと受け止めていくよう、守り、導くことです。

 

このように、パウロとバルナバは、第1次宣教旅行でキプロス宣教から始まり新たな地での伝道を続けてきましたが、デルべを折り返し地点としてシリア州のアンティオキアへ戻る行程では、これまでの働きで弟子たちに加えられた教会の信徒たちを励ますことと教会形成のための長老たちの任命をしながら来た道を引き返しているのです。つまり、帰路の二人の使命は生まれた教会を整えることだったと考えられます。単に「同じ道を戻る」ことではなかったのです。

 

24-26節で、「それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、 そこからアンティオキアへ向かって船出した。」と、書かれています。

 

パウロたちが、迫害された危険な道を戻ったこと自体が、弟子たちへのメッセージでもあったのでしょう。だからといって主はわたしたちを見捨てられたわけではないのです。パウロは、迫害にあった町に戻るという自分の生き方によって、キリストに従うことは苦難を伴い、「多くの苦しみを経る」ことを示しているのです。

そしてパウロは教会に長老を立てた後、「彼らをその信じている主にゆだねた」と書かれています。「パウロにゆだねる」のではなく「主にゆだねる」のです。

パウロは、弟子たちを自分に依存させようとはしていません。「主がこの教会を守ってくださる」と信徒たちが信じるところまで持っていくのです。

 

そして実際、14:26でアンティオキアに戻ったとき、宣教旅行について「神が自分たちと共にいて行われたすべてのこと」と報告しています。

「パウロとバルナバが成し遂げた働き」としてではなく、「神が共にいて行われたこと」として報告しているのです。それが、宣教旅行の出発地であるシリアのアンティオキアで、パウロたちが行った第一次宣教旅行の報告でした。

 

今年は、杵築教会創立137年を迎えます。長い歴史の上に、わたしたちはどのように新たな神様への報告をさせていただくことが出来るのでしょうか。

主にお委ねいたしましょう。

 
 
 

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