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使徒8:4-14「サマリアでのフィリポの働き」 20260621

6月21日
読了時間: 8分

更新日:5 日前

(聖書)

列王記下17章21-24節(旧約607頁)

使徒言行録8章4-13節(新約227頁)


本稿は、日本基督教団杵築教会における2026年6月21日聖霊降臨節第5主日礼拝の説教要旨です。杵築教会伝道師 金森一雄


1.サマリアの歴史

 

先ほどお読みいただいた列王記下17章22-23節に、「イスラエルの人々はヤロブアムの犯したすべての罪に従って歩み、それを離れなかった。主はついにその僕であるすべての預言者を通してお告げになっていたとおり、イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移され、今日に至っている。」と書かれています。

 

ここで語られている「ヤロブアムの犯したすべての罪」とは、ダビデの孫の時代の出来事で、イスラエルが北の10部族と南ユダヤ2部族に分裂して北イスラエル王国と南ユダ王国となったときに、北イスラエル王国の初代の王ヤロブアム一世が、金の子牛の像を二つ造って北イスラエルの北の端ダンと南の端ベテルに聖所を置いて、北イスラエルの人々が南ユダヤのエルサレム神殿に礼拝に行くことを阻止する施策をとったことから、金の子牛という偶像を造ったことと聖所と言う場所を人間の側で勝手につくったことが、罪(=的外れ)であり、神様が最も嫌われる大反逆であることを指しています。

 

ダンは、シリア方面から人や物資が集まる交通路の近くにある町で、ガリラヤ湖の北方60kmにあります。

ベテルは、エルサレムの北方わずか20km、北イスラエルと南ユダヤの境界線に近くに位置しています。イスラエルの中央山地を通る南北交通の南の要衝の地です。

北イスラエル王国の初代の王ヤロブアム一世は、北イスラエル国内にダンとベテルに二つの聖所を新設して、南ユダ国のエルサレムの影響力を弱体化させて,北のダンと南のベテルという新しい聖所で北イスラエル王国全体を宗教的に包むことによって、自国の結束を強めようとした宗教政策でした。


一方、当時の世界の覇者アッシリアは、征服した地の反乱を防ぐために、征服地に他の地の異邦人を強制移住させる政策をとっていました。そのことについて列王記下17章24節に、アッシリアの王が「バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。」と書かれているのです。

アッシリアは、征服したメソポタミア系住民を移住させて、北イスラエルの人たちと彼らの血が混ざるような同化政策を進めました。紀元前9世紀にサマリアの町が北イスラエル王国の首都となっていますので、北イスラエル王国全体を指す名称としてサマリアが用いられるようになったのです。

もとより、ユダヤ人たちは純血であることをとても大事にしていますから、北イスラエル王国のサマリア人は外国の血が混ざってしまった人たちだ、と見なされて嫌われていたのです。そしてそれがずっと新約時代まで続いていました。


 2.サマリア伝道の開始

 

ヨハネによる福音書の4章6節(新169頁)に、主イエスと弟子たちがサマリアに行った時のことが書かれています。主イエスはヤコブの井戸のそばに座っておられ、そこにサマリアの女が水をくみにやって来ます。主イエスが「水を飲ませてください」と言われました(7節)。「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。」(8節)と書かれています。

サマリアの女は驚きました。9節には、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」と、その理由が書かれています。

ユダヤ人から、話しかけられること自体、驚きの出来事だったのです。ここから分かることは、当時普通に考えれば、ユダヤ人はサマリアの町への伝道は決してしないし、サマリアの町を通ろうともしなかったということです。


ところが、わたしたちに本日与えられた使徒言行録8章1節で、ステファノが殉教して新約時代のエルサレム教会に対する大迫害が起こると、多くの人たちがディアスポラ(離散)したことを語り、その最初の離散した先での出来事としてサマリアの町を登場させています。

フィリポは、使徒言行録6章のギリシャ語を話すユダヤ人とアラム語を話すユダヤ人の間で問題が起きた時に、解決のために教会総会のようなものが開催されて、新たに評判の良い人の中から七人の執事が選ばれたときに、そのリストでステファの次に書かれていたギリシャ語名の人でした。そのフィリポが、ディアスポラによってサマリアに遣わされたようにわたしには思えるのです。まさに、すべてのことは、人間の思いからではなく、神様のご意志が働いて実現していくことが示されているのだと思います。

 

執筆者のルカは、続いて3節には、「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」と書いています。そして4節では、「散って行った人々が、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」、5節で「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」と、この出来事が歴史の大転換点となることを迫害者としてアラム語名のサウロ(ラテン語名のパウロ)という名前を登場させて、迫害の中で神様の御計画が確実に進んで行くことを書き記しているのです。


その上でルカは、フィリポと魔術師シモンの対立軸を浮かびあげらせて記していきます。

6-8節に、「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。」、「実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。」と、書かれています。

9節には魔術師シモンという人物が出てきます。シモンについては、「偉大な人物と自称していた。」10節に「小さな者から大きな者に至るまで皆」、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。」と紹介しています。

ここで「小さな者から大きな者に至るまで皆」という表現をして、社会のあらゆる階層の人々が広く影響を受けていたということを強調しています。そして11節では、「人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。」と説明されています。


12節には、「しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼(バプテスマ)を受けた。」と、書かれています。「神の国」とは、神様のご支配のことです。フィリポは、自分の名を高めようとはしていません。あくまでも伝道者として、イエス・キリストの福音を伝えたのです。


その結果13節に、「シモン自身も信じて洗礼(バプテスマ)を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。」と、書かれています。

それまでは人々を驚かせ、人々の心を奪い、人々の目を自分に注がせていた魔術師シモンが、今度は逆にフィリポに驚かされる立場になったのです。


こうして、サマリアの町はエルサレムで大迫害が起こったときに、魔術の支配から神様のご支配がなされるように変わったのです。


3.洗礼を受けて、解放される

 

この魔術師シモンの話から、束縛からの人々の解放は、洗礼(バプテスマ)によってなされることを知ることができます。

そしてサマリアの町の人たちは、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けました。


わたしたちも洗礼(バプテスマ)を受けます。

洗礼を受けてもちっとも変わらない、という声もよく耳にします。確かに、洗礼を受ける前と後で、自分自身を見つめていれば、洗礼を受けたからといってすぐに変わったようには見えません。むしろ何も変わっていないのではないかと思わされます。

 

しかし、決定的な変化が洗礼によって起こります。自分の主人が変わるということです。

主イエスが、マタイによる福音書6章24節で「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。パウロは、ローマの信徒への手紙6章16節bで「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」と語っています。

 

洗礼を受けますと、罪の奴隷だったわたしたちは、神の僕に変えられるのです。皆さんは、罪の奴隷と神の僕のどちらの身分を選ばれますか。それを決断することがわたしたち一人一人の「出エジプト」なのです。それによって、自分の主人が変わるのです。

美容整形のように自分の姿が変わるのではありませんが、キリストに似たものに変えられていくことが始まるのです。

 

今なお、この世の中には闘いが続いています。

伝道者フィリポが魔術師シモンに勝利したように、この世界では、神様の力に対し罪の力が闘いを挑んでいますが、神様は必ず勝利されます。魔術のようなものに振り回されて歩むのか、それとも神様の力を信じ、地に足をつけてキリストを主人として歩むのか、わたしたちは勝利者となる道を選択する自由が与えられているのです。


わたしたちは、神様のご支配を信じて、主イエスと共に歩む群れです。

神様の権能を信じて、世界は神様によって支配され、神様の愛の支配の中に置かれていることを知り、洗礼(バプテスマ)を受けたキリスト者は、主イエスと共に歩み出し、神様によって恵みの中で変えられていくのです。


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